加藤文太郎が山へ向かっていたころ(続き)
2016年 07月 06日
積雪期における槍ヶ岳から奥穂高岳の初通過は1931(昭和6)年3月の慶大隊であるが、北穂高岳と涸沢岳の間は稜線を外し巻いている。
立大隊は31年暮れから32年1月にかけ、槍ヶ岳から奥穂高岳を稜線通しに踏破した。
また少し遅れて学習院大が槍ヶ岳から西穂高岳の縦走を成功させている。
またしても脱線してしまいますが単独行から・・・
1929年(昭和4)4月1日
奥穂の岩場のちょっとしたところが登れなかったので、唐沢岳へ登ってみる。
(中略)横尾の岩小屋に八高出身の桑田氏がいたので泊めてもらう。
4月2日桑田氏が奥穂へ登るというので連れて行ってもらう。
奥穂の岩場でちょっと参ったが、同氏の切ったステップを辿ってやっと登った。
白出コル上の岩場だと容易に想像でき、当時は今のように鉄ハシゴは設置されていなかったのだろう。
「桑田氏」とは桑田英次のことであり、東大時代はあの天才クライマー小川登喜男と組んで、困難とされた数々の初登攀を成し遂げた人物である。
大きなニュースとして1930(昭和5)年1月9日、東大生4名と案内人2名が剱沢小屋もろとも雪崩に埋没した。
最後に一行と出会い会話を交わしたのが加藤文太郎だった。
単独行には「一月の思い出」で残されている。
1934(昭和9)年4月の前穂北尾根は岩の技術が求められ、文太郎は単独ではなくザイルパートナーを伴っている。
そのパートナーと風雪の北鎌に散ったことが残念に思われる。
山岳小説「孤高の人」ではヒマラヤ貯金をしていた文太郎であるが、事実はどうだったのか興味深いことである。
その文太郎が逝って9ヵ月後の1936(昭和11)年10月5日、立教大学山岳部隊がナンダ・コット6867m(ガルワール・ヒマラヤ)の頂に立ち、日本人初のヒマラヤ登頂を飾っている。
・・・2010.7.4の記事を参考に。
by nakatuminesan | 2016-07-06 13:19 | 昔むかし | Comments(0)