加藤文太郎が山に向かっていたころ   

2016年 06月 29日

文太郎が積雪期の山に足跡を残したのは短期間である。
それは1929(昭和4)年1月の八ヶ岳行きに始まり、槍ヶ岳北鎌尾根に逝く1936(昭和11)年1月までの7年間である。

文太郎は単独で北アルプスを中心に信じられないような記録を打ち立てた。
日本の登山界においては案内人を伴っての冬季登山が定着していたころにあってである。

だが1930(昭和5)年あたりから近代アルピニズムがレベルアップすることになる。
本格的なバリエーション・ルートの開拓や岩登り技術が格段に向上し、日本アルプスにおいて初登攀ラッシュの時代に入っていく。

天才クライマーと呼ばれた小川登喜男や小川猛男たちが登場し、穂高滝谷や屏風岩に挑戦し初登の栄誉を勝ち取ったのである。
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また京大や慶大は積雪期の高所露営を繰り返し、以後は極地法が大学山岳部に拡がることになる。
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1931(昭和6)年に上越線が全通したことで、東京から近い谷川岳一ノ倉沢にも初登攀の火花が散ることになる。
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雪中ビバークや長時間行動をものともしなかった文太郎である。
しかし当時の初登攀争いにライバル意識を燃やしたのか、不得手とする岩場に向かおうとする姿勢が現れる。

1933(昭和8)年ごろから岩稜縦走に傾きはじめ、3月の槍ヶ岳~奥穂高岳~前穂高岳縦走がよい例である。

これは昭和10年代に製作された登山靴で、返し皮を立ててスパッツの機能を持たせていた。
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ちょっと脱線してしまいます・・・
文太郎出身地の兵庫県美方郡浜坂町(現在では新温泉町)には加藤文太郎記念図書館があり、粗末な登山靴を目にすると冬期単独登頂の記録は信じられない思いがする。
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今から80年以上も前になる古い話しでした。
続きは近日中に書いてみたいと思います。

by nakatuminesan | 2016-06-29 17:36 | 昔むかし | Comments(0)

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