穂高岳に思う
2014年 08月 08日
1906年(明治39)、測量官の阿部郡治が奥穂高岳に初登頂している。
しかし縦走登山は時代のパイオニアたちによって成されることが多かった。
注目すべきは1909年(明治42年)8月15日から16日に行った、あの有名な案内人・上條嘉門次を伴った鵜殿正雄による前穂高岳から槍ヶ岳の初縦走だろう。
上宮川谷から瓢箪池(ひょうたんいけ 鵜殿の命名)に出、下又白谷を横断して前穂・明神間のコルを経て前穂高岳(南穂高と命名)に立つ。
続いて奥穂高岳と涸沢岳(北穂高と命名)に登頂する。
風雨強まり白出コルから涸沢に下り岩小舎で露営。
目の前に屹り立つ涸沢槍のことを劒ガ峰と呼んだのは翌日の朝である。
6時に岩小舎を出発した彼らは涸沢のコルに達し、8時に登頂した北穂高岳を東穂高と命名。
次いで大キレットを通過し、南岳、中岳、大喰岳を経て15時、ついに槍ヶ岳の山頂に立って穂高~槍の完全縦走を終わらせている。
クサリはおろか目印もない未知の岩稜縦走であり、その足の速さたるや驚きを隠せない。
先ほどの穂高縦走では白出のコルから明けの明星が見えたが、彼らは涸沢の岩小舎から見上げたであろうか。
彼らは前穂の北尾根や北穂のドームに登攀欲を持っただろうか。
彼らは奥穂高岳からジャンダルムを眺め、次なる初縦走の構想を練ったに違いない。
鵜殿は1912年(大正1)8月、嘉門次を伴い西穂高岳から奥穂高岳の初縦走にも成功している。
あの加藤文太郎は1933年(昭和8)3月、槍ヶ岳から前穂高岳への単独縦走を成していて、当然ながら登山界から高い評価を得ている。
風雪の北鎌尾根に倒れなかったなら、次なる目標は奥穂高岳から西穂高岳の積雪期単独縦走であっただろう。
先人たちはあの岩峰を眺めただろうかとか、この岩角に触れたであろうかと思うことで、先日の穂高縦走は心満ち足りる楽しい山行であった。
by nakatuminesan | 2014-08-08 13:22 | 昔むかし | Comments(0)