山を始めたころ
2013年 06月 14日
それに対して国内の岩と氷で腕を磨いた社会人系クライマーたちは、ヨーロッパ・アルプスに目を向けることになる。
多くのクライマーがアルプス三大北壁に殺到し、1965年にはマッターホルンとアイガーが、1966年にはグランド・ジョラスが日本人によって登られた。
それは私が徳島の山を歩き始めたころであり、こんな世界があるのかと山岳雑誌の写真に見入ったものである。
当時の話となれば小西政継と山学同志会の登場を欠かせない。
小西は1967年2月、遠藤二郎と星野隆男をパートナーにマッターホルン北壁の冬季登攀(第3登)に成功する。
また1971年にはグランド・ジョラス北壁の冬季登攀(第3登)を成し遂げている。
小西には多くのザイル仲間がいて、世界初の冬期三大北壁完登者となった星野隆男、国内においても多くの初登を勝ち取った最強クライマー今野和義たち。
グランド・ジョラス北壁をともにした植村直己もそうだった。
このころは山岳部で一通りの山を経験していたが、彼らが軽いトレーニングとする山に命を賭けるほどレベルの違いがあった。
小西の目はヒマラヤにも向く。
ジャヌー北壁の初登頂やカンチェンジュンガ主峰北壁の無酸素登攀などを指揮し、山学同志会を国際的にもトップレベル精鋭集団に育て上げたその情熱と手腕は高く評価されている。
群れることを苦手とする私は山岳会にも属さず、加藤文太郎の跡を追うように単独で雪山を登っていた。
少しぐらいはヒマラヤを意識していたが、さて文太郎はどうだったのだろうか。
マッキンリーに消えた植村の名は有名だが、あの星野でさえ冬の穂高で雪庇を踏み抜き、今野は冬の一の倉沢衝立岩正面壁を単独登攀中に墜落死。
あまりにも早すぎる山の死といえよう。
それにしても仲間のあとを追うように、マナスルで消息を絶った小西の行動は謎めいている。
by nakatuminesan | 2013-06-14 10:34 | 昔むかし | Comments(2)
しばらくこの写真の虜になりそうです。
マッターホルンはこの目で眺めたことがありますが、北壁は人が登るとは信じられない厳しさと自然の美を感じました。
北壁は精鋭クライマーにとっては魅力的でしょうが、尾根屋にはとても無理なルートとしてか映りませんでした。
厳しい山は私たちには登れませんが、眺めているだけでも心に響く美しさを嬉しく思いますね。