松濤明のこと   

2011年 07月 01日

1938年(昭和13)に社会人山岳会の雄・登歩渓流会に入る。
同会には戦前から名高いクライマー川上晃良もいるからレベルは高い。

入会まもない夏、松濤はひとりで穂高へ向かう。
涸沢にテントを張り、孤独なクライミングに没頭する。
注目すべきは滝谷第4尾根の単独登攀であり、1932年に初登されてはいたが、松濤以前に単独で登った記録はない。

10月の谷川岳一ノ倉Aルンゼ単独初登。
12月30日の八ヶ岳・硫黄岳~横岳~赤岳~権現岳~編笠山単独縦走。
早熟というか・・・おそるべき16歳。

1939年(昭和14)12月23日、17歳で北穂高岳滝谷第1尾根の冬季初登を成し遂げるも、登攀は困難を極めた。
風雪のビバークから・・・
『夏強引に登ったクラックは氷でぬめって手も足もでない。
(中略)
もう死物狂いだった。
(中略)
上段のチムニーを急ピッチでよじ登ると、瞬間目も覚めるような月光を浴びて、T1へでた(22:00)。
コルのテントが見える。
助かった、という気持ちだった。
(中略)
「良い月だなあ」孫人がそう叫んだように思う。』

・・・極限の登攀を終えた安堵感が伝わるようだ。
島々の名ガイド上條孫人がパートナーといえど、会心の登攀だったのはまちがいない。
雪の滝谷第1尾根が再登されるには、1958年3月まで18年間の空白がある。

もちろん厳冬の滝谷を眺めたことはある。
夏は適度な緊張感を味わう登攀の経験もあるが、氷雪に飾られた壁は厳しい表情をした要塞のようだった。
滝谷第1尾根(中央)
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1940年(昭和15)3月、南ア南部の易老岳から聖岳と赤石岳を越えての悪沢岳までの単独縦走。
1943年(昭和18)4月、硫黄尾根から槍ヶ岳への単独縦走。
この二つの記録はともに積雪期初縦走である。

南アのほうは技術的な困難さはないが、氷雪に覆われた硫黄尾根の岩稜を単独縦走するとは。
戦中の物資不足の時代によくも大胆かつきわどい登攀をやったものである。
硫黄尾根の積雪期第2登は1957年1月、社会人山岳会が十数名を擁しての極地法を駆使してのものだった。
時代背景を考慮すれば、松濤の硫黄尾根縦走は極限的な単独行だったと想像できる。
夏の硫黄尾根(北鎌尾根から)
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復員した松濤は山に情熱を燃やす。
1948年(昭和23)10月、錫杖岳を目指して新穂高温泉に泊まった松濤は、会の先輩に便りを出している。
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「眉目美しき乙女の二人」の一人は翌年1月、上高地で帰らぬ松濤を待った芳田美枝子である。

26歳にして北鎌尾根で不帰の人となった松濤明の遺稿集「風雪のビバーク」は、今なお多くの人びとの胸をうつ名著であろう。
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遺体とともに発見されたフィルムに写っていた遺影。
松濤(左)と有元
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愛用のピッケルと手帳
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by nakatuminesan | 2011-07-01 18:28 | 昔むかし | Comments(1)

Commented by 山猿 at 2011-07-01 21:18 x
昔むかしではなく、貴方の中に脈打ってるロマンを感じますよ。みんな命を通り越してたように思いますね。全く理解されなかったけど。

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