カテゴリ:本( 53 )   

「アルピニズムと死」―僕が登り続けてこられた理由   

2016年 07月 09日

山野井泰史著 山と渓谷社 2014年11月発行
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なかなか梅雨が明けそうにありません。
図書館で三冊の本を借りてきましたが、天国に一番近いクライマーと呼ばれた男の本が面白そうです。
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なぜ今も登り続けていられるのか。
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毎年のように海外登山を続けた男も最強年齢は過去になり、今後は山にどう向かうのか他人事なのに気になってしまいます。
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by nakatuminesan | 2016-07-09 11:38 | | Comments(0)

穂高に死す   

2016年 03月 04日

安川茂雄著 三笠書房 1969年11月刊行
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本書では昭和初期から30年代までの槍穂高における山岳遭難の歴史を振り返り、若くして逝ける登山家たちの群像を描いている。
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近代アルピニズム発祥の地を挙げるならば、まず槍ヶ岳から穂高連峰に目が向けられる。
積雪期の初登頂を狙う動きは大正から始まり、昭和初期から30年代までは数々の初登攀争いが繰り返され、その輝かしい記録の陰では凄惨な遭難事故が起きていた。

昭和3年3月、大島亮吉が前穂北尾根Ⅳ峰で滑落死(当時28歳)。
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昭和11年1月には加藤文太郎が北鎌尾根に倒れる(当時30歳)。
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加藤文太郎(左)と吉田登美久
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昭和24年1月、松濤明が北鎌尾根で壮絶な死を遂げた(当時26歳)。
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松濤明(左)と有元克己
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名だたる登山家が若くして槍や穂高に消えたのである。

前穂高岳のナイロンザイル切断事件、また松高山岳部の栄光と悲劇など、登山史に影を落とす事故も穂高を舞台に繰り返されてきた。

そもそも急峻な地形をした槍や穂高岳一帯である。
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しかし雪の時期に足を踏み入れたいということは、その白い魔力であり困難を克服したい山屋の心理だと考えたい。

歳を取ってしまった今にして思うことは、厳冬の槍穂高縦走は困難と危険が伴う行為だということである。
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by nakatuminesan | 2016-03-04 18:14 | | Comments(0)

世界山岳全集6   

2015年 12月 11日

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エベレスト登頂 ジョン・ハント著 朝日新聞社訳
雲表に聳ゆる峯々 アルバート・エグラー著 横川文雄訳 昭和35年1月発行
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映画「エベレスト3D」を観た人は多いと思います。

エベレストに関する書物は数多くありますが、本書は初登頂のことを記しています。
初登頂を果たしたのはニュージーランド出身の登山家であるエドモンド・ヒラリーと、チベット出身のシェルパであるテンジン・ノルゲイで、1953年5月29日午前11時30分のことでした。
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この本を購入したのは高校生のころでした。
400ページちかくある書物ですが、定価450円でしたから時代が分かるでしょう。
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一時はエベレストを考えたこともありましたが、歳をとってしまった今では諦めの境地になっています。
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つい最近には映画も観たことだし、久しぶりに読み直してみようと思っています。
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by nakatuminesan | 2015-12-11 12:23 | | Comments(0)

「北アルプス この百年」   

2015年 03月 03日

菊地俊朗著 文藝春秋 2003年10月発行
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冒頭に
「地図を作った陸地測量部員たちは地図もなしに、なぜ峻険なアルプスの頂に立てたのか?
日本アルプスの名を世界に広めた英国人宣教師ウェストンが、山麓でまず頼ったのは誰か?
これまで“外来”の登山者の側からしかスポットを当てられなかった近代の登山史を、幕藩体制の時代から山々を否応なく生業の場とし、近年では遭難時に救助態勢を組まざるを得ない“地元”の苦闘の視点から捉え直した画期的な北ア史。
営業小屋開設百年を期して贈る。」
とある。
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ちなみに営業山小屋第1号は1907(明治40)年に本格的開業の白馬山荘である。
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本書は長い山歴の著者ならではの内容になっている。

一般参加者は中高年の男女が大部分である。整備された歩きやすい登山路を登ってくる。
これはいわゆる「近代登山」組なのだろうか。
「近代登山」という言葉にこだわるなら、最近、穂高岳の滝谷や屏風岩、剣岳の八ツ峰や源治郎尾根など、北アルプスの岩場でハーケンの音がめったに聞かれなくなったことを、どう理解したらいいのか。

山案内人は、ヒマラヤ登山でいえば、隊や個人が現地で雇うシェルパにあたる。
彼らシェルパの活躍とサポートなしには、これまでの数々の初登頂記録が生まれなかったことは確かである。
ただ、その初登の栄誉は、こく少ない例外を除いて、すべて彼らを雇ったサーブ(旦那)のものとなっている。 

などなど北アの知られざる歴史を紹介しつつ、登山行為を問いかけているようでもある。
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著者は1964年、長野県山岳連盟を中心とするヒマラヤ・ギャチュン・カン(7922m)登山隊に隊員として参加した経歴がある。
著書「栄光への挑戦」はギャチュン・カン登頂記である・・・2010年1月8日の記事を参考に。
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by nakatuminesan | 2015-03-03 17:34 | | Comments(0)

岳人   

2014年 08月 15日

登山専門誌『岳人』が生まれたのは1947年のことであり、70年近くにわたり中日新聞社が発行してきた月刊誌である。
そもそも岳人は中日新聞社が刊行する以前、京大山岳部の設立者の一人でもある伊藤洋平らが創刊したものである。
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当時の伊藤たちはヒマラヤのジャイアンツを目指していて、山の技術や精神を追究したものであることは当然で、登攀の記録や報告などを扱った先鋭的な山岳専門誌であった。

1960年代から70年代にかけての特集はヒマラヤにしろ国内であれ内容が濃く、発売日を待ちかねて本屋に足を運んだものである。
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平成になり時代変化とともに編集方針が変わったように感じていたが、今年の2月号で通巻800号を迎えるまでになっていた。
しかし発行部数の減少に苦慮したのだろうか、山道具メーカーのモンベルが引き継ぐことになった。
月刊、毎月15日発売は変わらないが、サイズがAB 判から元のB5判になっている。
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岳人とはなんとよい響きだろうか、終刊に追い込まれないよう願う山屋の一人である。

初めて買って読んだのは昭和41年4月発行の219号、ヨーロッパ・アルプス特集である。
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昔は毎月購入する時期もあったが、ついに立ち読みすらしなくなって久しい。
理由は簡単で雪山、沢登り、山スキーなど特集が毎年同じ繰り返しだからである。

11月号は加藤文太郎を取り上げるらしく、何度も組まれた特集ではあるが見逃すわけにはいかないだろう。
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おまけ・・・話は古くなるが過去には山岳専門誌『岩と雪』があり、文字通り岩登りや雪山などを目指す先鋭的クライマーの専門誌であった。
当時の山岳界に熱い雰囲気をもたらしたが、残念ながら終刊してしまって20年ほどになる。
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by nakatuminesan | 2014-08-15 08:17 | | Comments(2)

「怒る富士」   

2014年 07月 03日

新田次郎著 文藝春秋 1980年5月発行
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宝永4(1707)年11月22日、富士山が突然の大爆発で山の形が一変する。
19日間にわたり砂を降らし続け、山麓農民に甚大な被害をもたらした。

時の関東郡代伊奈半左衛門忠順は、こうした農民の窮状を救うべく強く幕府に援助を要請した。
だが、彼が見たものは被災農民を道具にした醜い政権争いだった。
大自然の恐怖を背景に描く、著者会心の長篇時代小説である。
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富士山麓の足柄上郡、足柄下郡、駿河国駿東郡では当時は山焼と呼ばれた噴火により、火山灰が積もる甚大な被害が出ていた。
その地域は年が明けると人の住めぬ亡所とされ、多くの村々が幕府に公収された。

関東郡代伊奈半左衛門が派遣され、半左衛門は酒匂川の改修工事を命じられる。
被害を受けた農民たちを救おうと奔走する半左衛門に反し、幕府内では醜い権力争いが繰り広げられる。
つまり被災農民を権力争いの道具にし、被災地救助のために集められた金は農民に届かない。

幕府内の政争の前に彼の努力もむなしく農民たちは次々に飢えていき、幕府米五千俵を秘かに農民に与えようと半左衛門は決心する。
300年前の出来事を小説にしたものだが、大災害からの復興という点で現在の日本に当てはまるようでもある。
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著者は富士山頂で気象観測に従事する生活を5年間ほど続けていて、富士山を題材にした作品が多いのは当然かもしれない。
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富士山頂から宝永山に向かって下るとき正面に箱根が、そして左手には山中湖の眺めが広がる。
その辺りを含む広い地域が経験した災害復旧から300年もの年月が過ぎている。
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by nakatuminesan | 2014-07-03 14:42 | | Comments(0)

「氷壁」   

2014年 02月 07日

井上靖 著 新潮社 1957年10月発行
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1955年(昭和30)1月2日、実際に起きたいわゆる「ナイロンザイル切断事件」を基にしている。
映画化もされ井上靖氏を小説家として不動のものにした作品であり、登山者のみならず一般の人にも知られている。

小説に主人公として登場する魚津恭太は、伝説の登山家ともいわれる松濤明がモデルになっているといわれる。
ナイロンザイルが出回り始めた当時は従来の麻ザイルに比して強度が数倍強いとされ、メーカーもその強度を保証していた。
切れるはずがないとされていたナイロンザイルが切れたため、日本の登山界だけでなく世間を沸かせるセンセーショナルな事件でもあった。


魚津と小坂は元日に奥又白池から前穂高岳東壁の登攀を成功させるため入山する。
冬期完登記録のない北壁よりAフェースを経て、前穂高岳の山頂に立つことが目的だった。
奥又白のテントを5時半に出発する。
ナイロンザイル(30m)の使用は初めてだが、15時に北壁を登り15時30分にはAフェースに取りつく。
この頃より吹雪模様になりAフェース上部でビバーク。
翌朝7時半には雪は小やみになり登攀続行。
事件が起きたのは直後であり、魚津は突然小坂の体が岩壁の垂直の面から離れ落下するのを見た。

以上は氷壁の事故当時の一部抜粋である。
この小説は二つを軸として書かれている。
それは2人の青年登山家と1人の人妻を巡る恋愛感情の行方と、登攀中に起きたナイロンザイル切断事故の真相究明である。

もう60年近く前の山岳小説だが、読み返すと懐かしい言葉が登場する。
それは松高ルンゼ、奥又白、タカラの木などである。
前穂高岳の東壁には多くのルートがあり、若いころには登った思い出がある。
昨年夏の北鎌尾根の行き帰りに眺めることが楽しかった。
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これはおまけ・・・20歳のとき奥又白にて
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by nakatuminesan | 2014-02-07 12:10 | | Comments(0)

「改訂 日本の岩場」   

2013年 08月 18日

CJ編集部編 白山書房 2001年7月発行
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日本の岩場には上巻と下巻がある。
アプローチやルートグレードのみならず、初登攀者や人気度も紹介されている。
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先日の北鎌行では久しぶりに岩の感触を味わった。
若いころのような岩登りには程遠く、岩稜歩きが大部分の北鎌尾根ではあったが楽しかった。

明神から徳沢を経て横尾までも前穂東壁や北尾根4峰、そして屏風岩を眺めながら昔を思い出せてくれて満足な道だった。
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奥又白にも何度か入ったことがあるので、前穂右岩稜やDフェースに目が向いてしまう。
これは4年前のパノラマコースから写した右岩稜とDフェース(写真中央)
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高所が苦手な私は壁屋ではなく、どちらかといえば尾根屋であったが岩も攀じた。
1960年代後半の岳人には岩場ルート図集があり、それを片手に穂高や剱の岩場によく通ったものである。
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もう壁を攀じることが出来なくなったいま、こういったルート図集で過去を思い出す楽しみがある。

by nakatuminesan | 2013-08-18 12:56 | | Comments(0)

「梅里雪山 17人の友を探して」   

2013年 06月 20日

小林尚礼 著 山と渓谷社 2006年2月発行
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梅里雪山(メイリーシュエシャン)は中国雲南省に位置する連山の総称であり、7座あるうちの最高峰が標高6740mのカワカブである。
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未踏峰のカワカブを狙う隊が京都大学学士山岳会と中国登山協会による合同隊だった。
その合同隊に海外登山遭難史上最悪ともいえる事故が起きた。

本書の書き始めは1991年1月3日、標高5100mのC3からの最後の交信である。
隊員17人が雪崩に飲み込まれ消息を絶ってしまう。
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その当時、学生だった著者は先輩や友人たちの遺体捜索隊に加わり梅里雪山へ向かう。
中国登山協会と京大学士山岳会が捜索するが、連絡が途絶から22日目の1月25日、救難活動の打ち切りが発表される。

遭難から7年後の1998年、麓に住む原住民が明永氷河において遭難者のものと思われる遺体を発見する。
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寝袋に入っていた遺体が多いことから、C3で睡眠中に雪崩に巻き込まれたことが確実視された。
ヒマラヤの高峰に限らず国内でも、逃げ場のない就寝時の雪崩は多くの犠牲者をだしてきた。

遺体が発見された明永氷河
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再び捜索に加わっただけでなく、会社を辞め長年にわたって麓の村に通いつづける。
村人たちと生活をともにしながら遺体の捜索を続け、その15年にわたる過程のノンフィクション作品である。
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カワカブには全長300キロ、徒歩で10日以上を要する巡礼の道があり、父のため母のため自分のためにとチベット仏教徒は生涯に三度回ることが望ましいとされている。
自身もその長大なる道を歩いている。
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厳しい自然環境下での人びとの暮らしぶりも写真入で紹介されている。
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地元では昔から登山隊は神聖な山を汚すと嫌う風潮が根強く、登る者は遭難して当然という考えを持つ者も少なくないそうだ。
2006年1月現在、17名中16名の遺体や遺品が発見され収容されている。

チベット民族が神と崇める聖なる山カワカブは未踏峰のままである。
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写真から登れない山とは思えないが、人が立たない永遠の未踏峰のままがいいような気がする。
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by nakatuminesan | 2013-06-20 17:17 | | Comments(0)

「人生は8合目からがおもしろい」   

2013年 04月 02日

田部井淳子 著 主婦と生活社 2011年5月発行
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山に登らない人にさえ著者の名は知られているほどの超有名人
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女性初のエベレスト登頂を果たしたのが1975年のことで、さらに1992年には女性初の七大陸最高峰登頂に成功しているのだから。

七大陸最高峰とはエベレスト(アジア8848m)、エルブルス(ヨーロッパ5642m)、マッキンリー(北アメリカ6194m)、アコンカグア(南アメリカ6959m)、キリマンジャロ(アフリカ5895m)、コジオコス(オーストラリア2228m)、ビンソン・マシフ(南極4892m)のこと。

1939年生まれといえば私より10歳年上になる。
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今なお山に登り続けているのは当然で驚きもしないが、60歳を過ぎてからの行動には唸らされる。
ピアノ、シャンソン、謡曲、コンサート、エステ、ブログ、ギタレレ・・・次々と新しいことにも挑戦しているスーパーウーマン。
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「若いころは『山に登らない人は人間じゃない』と思っていたくらい許容範囲が狭かった」

「そんな生活が少しずつ変わってきたのは、子育てが一段落した50代になってから(中略)思い切って『やっちゃえ』と飛んでみた」

「人の誘いにはまず、乗ってみる。おもしろい、おもしろくないの判断はその後でいい」

「夢は持つべきだ。夢を持ち続けていれば、いつか実現する」・・・これなどは人だれしも気になる言葉。

14年前になる初めてのヒマラヤで会ったことがある。
社交的で活発な女性という印象は今でも強く残っている。
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by nakatuminesan | 2013-04-02 14:33 | | Comments(0)