[新編]「山 紀行と随想」   

2012年 02月 15日

大島亮吉著 大森久雄編 平凡社 2005年7月発行
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大島亮吉が1928年(昭和3)3月25日、前穂高岳北尾根で墜死したことはよく知られている。
大島は槇有恒らを中心に創立された慶應義塾山岳会に所属し、新たな雪と岩の時代の牽引者と目されていた。
本書は大島のエッセイ14編からなり、28歳で逝った彼の山を愛してやまない姿勢が伝わってくる。
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『涸沢の岩小屋のある夜のこと』がいい。
その一部・・・
自分たちの仲間では、この涸沢の岩小屋が大好きだった。
(中略)天気のいいときは、朝飯を食ったらすぐとザイルでも肩にひっかけて、まわりの好き勝手な岩壁にかじりつきに行ったり、(中略)大きな岩のうえでとかげをやる・・・

その岩小屋は1909年(明治42)8月15日、鵜殿正雄による前穂高岳から槍ヶ岳の初縦走の時に泊まった岩小屋だろうか。
崩壊して現在は存在しないといわれる。

10人程度が泊まれる広さだったらしい涸沢の岩小屋
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涸沢の岩小屋から前穂高岳を望む
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『穂高岳スキー登山』は1924年(大正13)3月の記録で、冒頭で穂高岳各ピークの名称整理がされている。
これによって現在の奥・前・北・西などの穂高岳の名称が確定した。
このときの奥穂高岳と北穂高岳の登頂は積雪期初である。

『三月の槍ヶ岳』は1922年(大正11)槇有恒をリーダーとしたもので、当時の精鋭メンバーによる積雪期初登頂の快挙だった。
参考までに・・・2010年6月26日の記事に書いています。
登頂写真は左から佐藤久一朗、大島亮吉、槇有恒。
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すこし余談になりますが、大島が逝ったと同時に加藤文太郎が雪山デビューする。
単独で厳冬の槍ヶ岳、奥穂高岳、北穂高岳などに登頂するも、雪の北鎌尾根に消えたのは30歳。

文太郎の死から13年後の1949年(昭和24)1月、北鎌尾根に倒れた松濤明にしても26歳の若さだった。

彼らに共通することは胸にくる文章表現であろうし、登山思想が確立されていることから登山界に多くの影響を与えたことだろう。

by nakatuminesan | 2012-02-15 11:11 | | Comments(0)

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