鹿島槍ヶ岳2889m   

2011年 01月 14日

北アルプス北部・後立山連峰の中央部に位置し、名実ともに後立山の盟主という存在である。
端麗と表現される南北2つの峰と、それを結ぶ吊尾根で構成される姿は美しい。

登山者の多くは槍ヶ岳を「やり」と呼び、鹿島集落の背後にある槍ヶ岳という意味の鹿島槍ヶ岳を「かしまやり」と呼ぶ。
鹿島槍ヶ岳2889m_c0219866_18272593.jpg

この山に魅せられた岳人たちの多くは、内懐に秘める荒々しさのとりこになったものであり、それは北壁や荒沢奥壁などのバリエーション・ルートである。
これらのルートの開拓は大正末期から昭和の初期に行われ、日本アルピニズムの歴史に貴重な一頁を記している。

山頂の北東にあるカクネ里はU字谷をなし、平家の落武者が隠れ住んだという(隠れ里)伝説をもつロマンを秘めた圏谷である。
鹿島槍ヶ岳2889m_c0219866_18282449.jpg

登山口の鹿島集落は昔から戸数11戸しかなく、集落の人々は平家の落武者の子孫といわれている。
民宿を営む狩野氏宅には、近代登山以降の鹿島槍ヶ岳の登高記念帳が保存され、それがそのまま鹿島槍ヶ岳の登山史となっているそうだ。

昭和6年2月11日、あの単独行の加藤文太郎は鹿島を午前4時30分に出発し、赤岩尾根を経て午後4時40分に鹿島槍ヶ岳に登頂したその足で午前0時に鹿島に帰っている。

加藤文太郎著「単独行」の一説から・・・『鹿島村では狩野久太郎様のところへ泊まった。とても親切な家だったし、山小屋と違うので二十時間の登行もこたえなかった。・・・中略・・・ 狩野様は鹿島岳の奥が晴れると快晴になると言ったし、大町あたりの笛や鐘の音が聞えると天候は崩れるとも言った。』
鹿島槍ヶ岳2889m_c0219866_18311243.jpg

雪の鹿島槍ヶ岳は学生時代の冬山合宿が初めてだった。
雪の時期に登られることが多い、バリエーション・ルートといわれる東尾根や天狗尾根は、若いときに単独で登ったことがある。
鹿島槍ヶ岳2889m_c0219866_1833166.jpg

しかしどうしても、もう一度単独で登りたかった厳冬の鹿島槍ヶ岳。
1998年の冬はあえなく敗退した。

by nakatuminesan | 2011-01-14 18:37 | 日本の山 | Comments(0)

名前
URL
削除用パスワード

<< 16日の塔ノ丸は延期 1月下旬の計画(2) >>