『激しすぎる夢』「鉄の男」と呼ばれた登山家・小西政継の生涯   

2010年 10月 12日

長尾三郎著  山と渓谷社 2001年発行
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小西政継(1938年~1996年)の日本のアルピニズムに対する貢献は“世界的な水準の登攀”という理念にもとずいて、日本のヒマラヤ登山に革新的な登攀スタイルを導入したということに尽きる。
20代から30代の青年期は国内の岩壁初登攀や、冬季マッターホルン北壁・グランドジョラス北壁、エベレスト南西壁などにより知名度を高め、所属していた山学同志会の名を知らしめた。

1967年2月 マッターホルン北壁を登る小西
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その後はジャヌー北壁・カンチェンジュンガ北壁・チョゴリ(K2)など、ヒマラヤの高峰に多くの仲間を登頂させたことは知られている。
この頃の無酸素登頂にかける小西の執念は恐ろしささえ感じる。

1976年のジャヌー北壁出発前
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1983年の山学同志会エベレスト隊では南東稜8750mで断念し、体力の限界を感じたのか本格的な登山から退いた。
登攀能力では小西以上のクライマーはたくさんいるだろうが、企画力や組織力などを含めた総合的な登山家としての力量では小西に匹敵する人物は見当たらないと、登山史上で最大の人物だと評されている。

1982年8月チョゴリ(K2)BCでくつろぐ小西
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1993年のマッキンリーから本格登山を再開した小西は、再び8000メートル峰への夢を広げることになる。
1994年「シルバータートル隊」に参加し、ダウラギリは自身初の8000m峰登頂となる。
若き日には頑固に拒否した酸素の使用をあっさりと認め、「登山はその時々のやり方で挑戦し、楽しめば良い」と語るようになっていた。

1996年のマナスルにおける小西の遭難ほど衝撃的なことはなかった。
本書第十章「マナスルより永遠に」では、その時の状況が克明に描かれている。
小西は7650mのC3を午前10時、単独でアタックに出ている。
登頂は果たしたが下山途中の7800mで姿を消した。

なぜ10時という遅い出発だったのか、なぜ7時間で切れる酸素ボンベでアタックに出たのか。
小西の行動は謎めいている。

ラルキャ・ペディ(4460m)からのマナスル
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by nakatuminesan | 2010-10-12 18:24 | | Comments(0)

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