菊地俊朗著「栄光への挑戦」   

2010年 01月 08日

1950年6月、フランス隊によってアンナプルナI峰(8091m)が登られた。
14座ある8000m峰への初登頂であった。
アンナプルナI峰の次は1953年5月、第九次イギリス隊がエベレストをものにした。
1960年5月のスイス隊によるウラギリI峰(8167m)までヒマラヤの8000m峰が次々と登られる時代があった。
1956年5月の第三次日本山岳会隊によるマナスル(8163m)登頂いらい、日本から毎年多くの遠征隊がヒマラヤを目指した。
日本人が初登頂をかざった7000m峰は20座以上に達していた。
だが大部分の遠征は技術的にもマナスルを超えるものはないと言われていた。
「栄光への挑戦」は1964年長野県岳連隊によるギャチュン・カン登頂記である。
菊地俊朗著「栄光への挑戦」_c0219866_140986.jpg

メンバー構成は隊員9名、報道関係2名。
ギャチュン・カンはエベレストの北西約25キロに位置し、ネパールとチベットの国境に聳える標高7952mの高峰である。
菊地俊朗著「栄光への挑戦」_c0219866_1354481.jpg

当時、ギャチュン・カンに関して、エベレストを初登頂したヒラリーは「恐ろしい山」と評し、また多くのヒマラヤ経験をもつ者でさえ「あんな危険な山へは行く気がしない」と述べている。
あの深田久弥氏は「1964年のヒマラヤ登山で世界の岳人がもっとも注目する遠征になる」と高く評価している。
菊地俊朗著「栄光への挑戦」_c0219866_1355969.jpg

しかし彼らは困難を乗り越え初登頂に成功した。
4月10日、7400mのC6を出発した2名の隊員と1名のシェルパが頂に立った。
ボンベの不調により無酸素での登頂だった。
標高を考えるとこの時期の登頂は異例に早い。
しかし登頂前日に1名が犠牲となっている。
菊地俊朗著「栄光への挑戦」_c0219866_1454078.jpg

1965年2月の発行だから山を始めたころだった。
ヒマラヤは死を越えるものなんだという印象がした。
「わが青春はヒマラヤの頂」に次いで2冊目のヒマラヤに関する書物だった。

by nakatuminesan | 2010-01-08 14:01 | | Comments(0)

名前
URL
削除用パスワード

<< 計画の延期 2月の富士山 >>